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悪魔と男と

 暗く、狭い部屋だった。窓では遮光カーテンが光の進入を拒み、床には複雑な幾何学模
様が描かれていた。冷たい部屋の中で唯一温かみを感じさせる炎は、部屋の中心に置かれ
た燭台の上にぽつんとあるだけで、あまりにも頼りない。
 そんな部屋の中心に、一人の男がいた。
 男は手に持った古い本と部屋の状況を見比べるように視線を何度か動かすと、やがて大
きく息を吐き、声を出した。どこの国の言葉ともつかない、不思議で、不気味な響きだっ
た。
 部屋の中では、男の声と本のページをめくる音が時折聞こえるだけで、他は何も聞こえ
ない。まるで、時間が止まってしまったようだ。
 変化が訪れたのは、突然だった。
 窓が閉められているはずの部屋に風が吹き始めた。蝋燭の炎が揺れている。次第に揺れ
は大きくなり、やがて限界を迎えたのか、煙だけを残して消えた。真っ暗になる部屋。だ
が、すぐに部屋は光に満たされた。床の幾何学模様が光りだしたのだ。
 高笑いをする男。先ほどまでの静寂を全てかき消すような大声だ。
 今、男の目の前には、人影がもう一つあった。いや、人ではない。その影は、悪魔だっ
た。

***

「人間よ、何を望む?」
 地の底から届いたような、低い声が響く。悪魔の声だ。
「俺をクビにした会社を倒産させてくれ」
 淡々と、男が答えた。
「えー、そらないっすわー」
 とたんに砕けた口調になった悪魔が言う。声も明るい。気づけば部屋も明るくなってい
る。
 男が驚いて言葉を失っている間に、悪魔は続けた。
「さっきあんたのことを『人間』と呼びましたけどね、間違いでしたわ。あんた人間じゃ
ないよ!」
 大声を出された男がビクッと震える。だが、言われっ放しでいられなかったのか、
「そうだよ! どうせ俺は人間以下のクズ野郎さ! 自分でもわかってる! だけど、こ
のやりきれない思いを――」
「あのー、すんません。そういうことじゃなくてね」
 やんわり男を制止する悪魔。毒気を抜かれた表情の男に、悪魔は続ける。
「私があなたを人間じゃないと言ったのはね、人間特有のモノを忘れてるからですよ」
 首をかしげる男。優しい声で悪魔は続ける。
「だから、どうです? 私があなたに三つ、贈り物をしましょう。魂もいいです。人間ら
しさを取り戻すために、タダであげますよ」
「人間らしさ……。どうせ、利己的な精神とかだろ。俺のことを悪魔に変えるつもりなん
だ――」
 悪魔は男の言葉を最後まで聞かずに噴出した。お腹を抱えて転げまわっている。やっと
収まったのか、悪魔は涙を拭くしぐさを見せながら、
「野生の生物はみんな利己的なもんですよ。一匹だって他の生物のことなんて考えてませ
んって」
 諭すように言った。
 男はその説明には納得したようだが、釈然としないようだ。
「じゃあとりあえず一つ、差し上げましょうか? 物は試し、言ってもらえれば返品して
くれてもかまいません」
 悪魔はそう言うと返事も待たずに、男に手をかざした。と、男の体が一瞬光を放った。
だが、外見に目立った変化はないようだ。男は悪魔に尋ねる。
「何をした!」
「私が今あなたに差し上げたのはね……」
 たっぷり間をおく悪魔。
「笑顔、ですよ」
「笑顔?」
 狐につままれたような表情を浮かべる男。
「そうです、笑顔。人間だけが唯一、楽しいときや面白いことに遭遇したとき、笑顔を浮
かべられる生き物なんです」
 そう言われて男は、自分が最近笑っていないことに気づいた。最後に笑ったのはいつの
ことだろう。悪魔に言われてそんなことを考え出した自分がおかしくて、男は小さく笑っ
た。
「そう、その顔です! 私は辛気臭い顔が大嫌いなんですよ」
 大げさな身振りで言う悪魔に、
「悪魔のセリフじゃないだろ」
 にやっと笑って男が返す。
 悪魔と男は顔を見合わせて笑いあった。


「さて、次の贈り物はどうしましょう?」
「……もらおうかな」
 悪魔の問いに、少し迷って男は答えた。
 まだ疑う気持ちはあったのだが、もし気に入らなければ返せばいいのだし、何より笑顔
を取り戻させてくれた悪魔を信じたくなったのだ。
「では――」
 悪魔が再び手をかざすと、男の体は一瞬光った。
「今度は何を?」
「あなた、さっきとだいぶ態度が違いますね」
 茶化すように悪魔が言う。
「忘れてくれよ」
 ムッとした表情で答える男。
「その顔、怖っ!」
「悪魔のセリフじゃないだろ!」
 そして笑いあう悪魔と男。
「いや、で、本当に何なの?」
 真顔に戻った男が、もう一度尋ねる。
「今差し上げたのは、未来――とでも言えばいいですかね」
「未来?」
「目的、と言い換えてもいいかもしれません。生物の中でも、先を見据えて目的を持って
行動できるのは人間だけなんです」
「目的――」
「繰り返すばかりで、あなたはオウムですか!」
 腕組みをして考える様子の男に、ツッコミを入れる悪魔。そして部屋に響く、二人分の
笑い声。
「俺さ、夢があったんだ」
 涙を拭いながら男が言う。
「いいことです、段々と人間らしくなってきましたよ」
「一度は諦めたんだけど……、でも、もう一度やってみるよ!」
 純粋な少年のような瞳で、男は言った。


「で、最後一つはどうします?」
「ここまで来て、いらないなんて言うわけないだろ?」
 ニヒルな笑みを浮かべながら、男は答えた。
「じゃあ、これでお別れですね……」
 少しさびしそうにうつむいて、悪魔は言った。
「でもね、いいんです! これで幸せになれるんですから!」
「悪魔……」
 名前も聞いてなかったなと、男は思った。悪魔に名前を尋ねるという発想自体変な話だ
が、男は悪魔を親友のように思っていた。いや、それ以上かもしれない。全てを一人で抱
え込んでいたところを救ってくれたのだ。感謝してもし切れない。
「悪魔、よかったら俺が死んだら魂をもらってくれないか」
 突然の男の申し出に、驚いた表情を見せる悪魔。
「何かお礼がしたいんだよ」
 目を丸くしていた悪魔だったが、ふっと息を漏らし、
「お礼なんかいりませんよ。最後のプレゼントを受け取った後のあなたの表情は、きっと
素晴らしいものでしょうから。それを見られるだけで、私は満足です」
 優しい声で言った。
 男は、随分前に亡くなった祖母の声を思い出した。暖かく包み込むような、優しい声。
 気づくと男は涙を流しながら、お礼の言葉を繰り返していた。
 柔らかい笑顔でそれを見守る悪魔。
 遮光カーテンで光は入らないはずなのに、陽だまりのように暖かな時間だった。
「では、そろそろ最後の贈り物を差し上げましょう」
 少し落ち着いてきた男に、悪魔が言った。その体は、透け始めている。元いた世界に返
るのだろう。
 男は何度もありがとうを繰り返し、悪魔を見送っている。と、男の体が一瞬光った。

「最後の贈り物は」
 笑顔を浮かべて悪魔が言った。男の悲鳴が同時に響く。
「――死への恐怖」
 地の底から届いたような、低い声だった。言い終わるころには、悪魔の姿は完璧に消え
去っていた。
 ひとり残された男は叫び続ける。世界から隔離された、幽かな明かりもない部屋で。
 男の声は、誰にも届かない。



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