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夢・現

 ある夜。
 いつものように寝ていた少年は、こんな夢を見ていた。

***

 村を見下ろすような小高い丘の上。そこから天に向かって伸びている大樹。その木の根
本に、僕たちはいた。
 僕は学生服が汚れることもかまわずに地面に浮き出した木の根を枕代わりに寝転がって
いる。そして隣には、真っ白な柄も何もないワンピースを着て、麦藁帽子を被った彼女が
座っている。
「私のこと、忘れないでね」
 自らの着ているワンピースにも負けないほど白い肌をした彼女が、搾り出すように言っ
た。
「当然だろ。何があっても忘れないさ」
 僕は閉じていた目を開き、彼女のほうを向きながら、寝転がったままで答える。木漏れ
日が、少し眩しい。
 しばらくの間、二人とも黙っていた。お互いに何も口にせずに、風の運んでくる花の香
りや、鳥の声を感じていた。
「私のこと、――忘れないでね」
 彼女が、また言った。先程と同じく、絞り出すような声で。
 僕は同じことを繰り返す彼女に若干イライラしながらも、彼女の目を見て答える。
「忘れるわけないだろ。この先、僕らに何があろうと忘れないよ」
 僕は彼女から視線を外さない。彼女も澄んだ瞳で、僕の目をじっと見つめる。しばらく
見つめ合い、そして――お互いに吹きだした。しばらくは我慢したのだが、耐えられない。
彼女もそうだったのだろう。お腹を抱えて楽しそうに笑っている。
 二人でひとしきり笑った後、僕は目に浮かんだ涙を指で拭いながら、言う。
「こんなに笑ったことをさ、忘れるわけないじゃんか」
 彼女も目の端に浮かんだ涙に白いハンカチをあてながら、
「そうね、ゴメンなさい」
 別に謝ることじゃないさ、と僕は返す。
「でも――」
 彼女は両手に力を入れる。そして、まくし立てるように、
「怖かったの。不安だったの。今までそう言って約束してくれた人たちも、結局は私のこ
となんて忘れていったの。だから……」
「大丈夫だよ。僕は絶対忘れない」
 寝転がっていた僕は上体を起こし、彼女に言う。そして、静かに抱きしめる。彼女が少
し驚いたのが分かった。それでも、僕は手を離さない。躊躇っているようだった彼女も、
僕の背中に手を回し、肩に顔を乗せてきた。
 しばらく抱き合ったあと、少し顔を離す。そして、風になびく彼女の髪を手で押さえな
がら、彼女の顔を見つめる。そして、また笑う。
 なんだか、全てのことを楽しいと感じる。彼女がいるのなら、彼女がいるから、この世
界は価値がある。
 だが。
 彼女は立ち上がり、言った。
「ゴメンなさい。私、そろそろ行かなくちゃ」
 幸せも、いつかは終わる。永遠に続くものなんか存在しない。頭では、分かっていたは
ずなのに。
「本当に、行かなきゃいけないの? もう少し、もう少しだけ」
 まるで聞き分けのない子供のようだ。自分でも分かってる。それでも、今この時間。こ
の幸せを手放したくない。
 彼女を見ると、少し困ったような、泣き出しそうな顔をしている。
 そうだよな、と呟く。彼女のほうが、僕なんかよりよっぽど辛いんだ。だったらせめて、
笑顔で見送ってやらなくちゃ。
 僕は立ち上がり、一度下を向いて大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。これ以
上、彼女に取り乱したところを見せるわけにはいかない。
「待ってるよ。何年でも、何十年でも。また、もう一度、君に会える日まで」
 笑顔で伝える。僕の気持ちを、離れていく彼女に。今の僕は、彼女にどう見えているの
だろうか。
「ふふっ、変な顔」
 泣き顔のような笑顔で、彼女が言う。
「お互い様だろ」
 怒ったふりで、彼女に返す。僕もきっと、あんな顔をしているんだろう。なんだか滑稽
だ。妙に笑えてくる。

 日が落ちてきた。
 まだそう遠くない場所にあるはずの彼女の顔が、よく見えなくなってくる。それでも、
声は届く。彼女の口から発せられた言葉は、ただ一言。
 サヨナラ。
 僕はそれを聴いて、ああ、本当にお別れなんだなと思った。情けないことに心のどこか
では、このまま彼女とずっと一緒にいられることを期待していたようだ。
 それでも。これは最初から分かっていたことだ、仕方がない、彼女のためだ。自分に言
い聞かせながら、僕も無理やりに言葉を紡ぐ。
 サヨナラ。
 その言葉が合図だったかのように――いや、合図だったのだろう。目の前にいた彼女は、
姿を消した。そこにいた痕跡など、何も残さずに。ただ、僕の記憶にだけ存在したかのよ
うに。僕の感情以外には、何にも干渉しないままに。 

 今や太陽は、完全に山の間に消え去っていた。普段なら代わりに顔を出す月も、今日は
いない。それが僕には、なんだかやけに寂しく感じられた。
 頬を撫でる風が、やけに冷たい。不思議に思って人差し指で頬を撫でてると、涙が風に
吹かれていた。
 彼女は、いつ戻ってくるのだろう。一ヵ月後? 一年後? 十年後? それとも――

***

 ある朝。
 いつものように目を覚ました少年は、自らの頬を流れる涙に驚いていた。
「寝ている間に泣いたとなると……、泣ける夢でも見たのかね」
 呟いたあとで苦笑する。そして、俺ってそんなキャラじゃねぇよな、と呟く。
 気にはなったようで、しばらく考えてみるも満足のいく答えが出ない。
「んー、まあ、どうでもいっか」
 彼はさっさと着替えて、顔を洗いに行くことにしたようだ。

 夢の中の出来事を唯一物語っていた、彼女の存在の証明であった彼の涙は、彼自身の手
によって、冷たい水にとともに流されていった。暗く、日の当たらない排水溝の中へ。



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